足下の、お気に入りのスニーカーを見つめて、ムーンドギーはため息をついた。
( 気が重いんだ。ほんとは行きたくないんだ。 )
ホランドの部屋のドアの前で立ち尽くす。ため息が零れた。
色々なことが分からない。でも何が分からないのか、分からない。けれど分からない何かが、怖い。
寂しさを感じていた。
レントンが来てから、前よりも構われなくなって、寂しかった。
こんなことを思うのは、こんなことを感じるのは、おかしいということは分かっている。
男のくせに女々しい考えだと自分でもそう思う。
彼の部屋へと素直に向かう足が憎い。行きたくないと拒み続ける頭が疎ましい。
だって、
( 不安なんだ。 )
だって、彼の口から、もし――……
( どうしようも、ないんだ。 )
分かっている。行くしかないのだ。
腹の底から息を吐き出した。苦しくなるまで、限界まで、長く、息を吐いた。
彼に聞いたところで、自分は彼に何を言えるのだろうか。そればかりが頭を過ぎる。
もどかしさに吐き気を覚えた。胸の辺りがまた痛み出す。重く、黒く、痛い。
どうしてこんなにも必死になっているんだろう。
彼の、たんなる気まぐれなだけかもしれないのに。
なぜ、こんなにも頭がズキズキするのだろう。
だって、
( あんたが、優しくしたりするから、)
優しくされたから。
( そうだ……、 )
優しくされたから、嬉しかった。
色々な形の『嬉しい』が胸の内に次々と湧き出てきた。
嬉しかったんだ。
手に浮かんでいた汗をズボンで擦り、空咳をしてから声を絞り出して、ドアに向かって小さく彼の名前を呼んだ。
「リーダー。お話があって、来ました」
ドアをコンコンと叩いてから、呼びかける。
返事はなかった。
「あのっ、オレです。ムーンドギー、です」
少し声を大きくしてみたが、やはり返事はなかった。
留守なのだろうか。
晩ご飯前の暇な時間に彼が部屋に居ないということは多分、いや、まずあり得ない。
まだ雑用だった頃、晩ご飯前は必ず部屋でくつろいでいる彼を呼びに行くのも仕事の一つだった自分が一番よく知っている。
「リーダー、入りますよ」
やはり返事はなかった。
「……入ります」
一歩前に出て、ドアの前に立つ。ドアノブをそっと握った。
* * *
同じ家に住んでいても部屋によって匂いは異なる。
ホランドの部屋は、やはり、すれ違った時に感じる匂いで満ちていた。
自分の部屋と違う匂いに、居づらさを感じる。
「リーダー。お話が、あるんですけど……」
部屋に一歩一歩ゆっくりと入っていく。
雑用の時に何度も来たのに、思い返してみれば部屋の中へは一度も入ったことがなかった。
物が少なく生活感の感じられない部屋、というのが酷くお似合いの部屋だ。
「リーダー?」
部屋の中央まで歩いていくと、ソファの上で何かが動いた。
怖々と近寄って見てみるとそこにはトランクス一枚という姿で寝ているホランドがいた。
だらしなくソファから垂れた手には一冊の本が握られている。
( こったら※1どごで寝たら、風邪ばひくのに……。 )
何もかけずに寝ている彼に、何かかけるものはないかと部屋を見回した。
この人の寝顔を、初めて見た。
眉間に深いシワを寄せて眠っている。
自分をからかって大爆笑していた時の顔とだいぶ違う。まるで、全くの別人のようだ。
ムーンドギーは寝ているホランドの、眉間のシワにそっと触れた。
深く刻まれたシワには、疲労が滲み出ているように感じられた。
眉間のシワを少し押してみる。それから、汚れを取る時のように擦ってみた。
( やっぱり、消えないか。 )
苦悶の表情で眠る彼のそばで、膝を折って座った。腕をソファの上で組み、ホランドの顔を見つめる。
こんなに近くでこの人を見るのは、初めてだった。
眠っていても男前なんだな、という的はずれな感想が頭を過ぎる。
彼の顔を見ているうちに、喉の奥が熱くなって、言葉がまとまらないままに溢れ出した。
あんたが、
「なしてオレのことからかうのかって、何回考えてもやっぱすわがんねんだ。
でも、あんたがオレのことからかっでくる時の、あの嫌味なくらい楽しそうな笑顔が」
なんでかすごく、
「好きなんだ」
だから、
「イヤじゃないんだ。あんたに、からかわれるの。嬉しいんだ、ほんとは」
でも、――。
苦しくなって、ため息を吐き出してから、口を閉じた。
これ以上は、何となく、言ってはいけないことのような気がする。
言ってしまったら、駄目なような気がする。
でも、
「でも」
言葉が堰を壊した。
止め処なく言葉が浮かび、まとまらないままに声となって形になる。
「あんたがあんまり楽しそうに笑うから、嬉しかったんだ。すごく、嬉しかったんだ」
自分でも何を言っているのかわからない。
彼が寝ていて本当に良かったと思う。こんなこと、起きている彼に聞かせられるわけがなかった。
「でもオレ、あんたに嫌われてるのかもって思ってる。ヒルダは違うって言ったけど、やっぱすわがんねぇ。
だってオレはあんたじゃないから。あんたの気持ちはあんたにしかわがんなくで、オレにはどうすることもできんで……」
喋りたいこと、伝えたいこと。たくさんあるのに、何も伝えられない。
「どしたらいいんかなって思う。それはつまり、あんたに嫌われたぐねえってことで……。
あんたになら、ああいう、イヤなからかわれ方でも、話しかけて欲しくて、笑って欲しくて、一緒にリフがしたいし、話もしたい」
あんたと話がしたいんだ。
「オレは、思ってることを言葉にするのが、苦手で、伝えたいことがなんも伝わらないから。
だから、変なこと言っで、あんたを怒らせるようなこと、言ったんだと思うんだ」
腕の中に顔を埋めて、暗い視界の中で少しずつ言葉を吐き出していった。
「だって、そうじゃなきゃあんたが、あんな風に、酷いことするわけないんだ。
あんたが優しい人だってこと、知ってるつもりだから。
なのにオレ、バカだから、自分がなにを言ってあんたを傷つけたか、覚えてないんだ」
頭の中で何となく形を保って浮かんでいる言葉が、声に出すと霧散してしまう。
言葉につまる。
「だから、ええと、だから……っ」
鼻がつんと痛くなる。寝ているホランドのように、眉間にシワが寄った。
「……オレ、あんたに、なにしちゃったんだろ」
くぐもった声で呟いた。
不安でしょうがない。怖くてしょうがない。
「なあ、ホランド」
( お願いだから、嫌いにならんで。 )
嫌われているのかもしれない、という思いが胸を締付ける。
彼が居るから、月光号に乗ったんだ。彼に憧れているんだ。
だからもし彼に嫌われたとしたら自分の存在価値なんてないのだ、と頭の中で自分が言う。
あんたに嫌われるのは辛いんだ、と頭の中の自分が、叫んだ。
ムーンドギーは深くため息を吐いた。
言葉が思うように形にならない。それが酷く、歯痒い。
また深く長くため息をついてから、帽子を被り直した。
「あんたは優しいから。でも、わがんないし、タチが悪い。もうオレ、わけがわがんねんだ」
何度考えても、何度頭に浮かべても、やはり本当に言いたいことは見つからなかった。
立上がって、彼の寝顔を見下ろした。
酷く虚しかった。言いたいことはたくさんあるのに、何一つ言葉にならない。
自分の喉へ片手を伸ばし、掴んだ。首を絞めるようにして、喉を押し潰す。
どうしてこの喉は、言葉を生み出してくれないんだ。
怒りと悔しさがごちゃ混ぜになって頭の中を走り回る。
ムーンドギーは息が詰まって苦しくなるまで、自分の喉を絞めた。
( こうすることで言葉が湧き出てくるなら、いくらだってするのに。 )
虚しさから、喉を絞めていた指を緩めた。
彼の手から今にも落ちそうになっている本を抜き取った。
彼の愛読書なのだろうか。表紙の絵画は何となく彼に似合っているように思えた。
その本は、ムーンドギーが今まで一度も読んだことのない本だった。
パラパラと中を見てみると、細かい文字だらけで挿絵は一つもない。
こんな難しい内容の本を、この人はきっと、涼しい顔をして読むのだろう。
本をぱたりと閉じて、静かにテーブルの上に置いた。
ベッドからブランケットを引っ張って来た。
裸足の足先からゆっくりとかけていく。胸元までブランケットをかけると、ムーンドギーはまた彼の顔を見つめた。
また少し、胸のあたりが重く冷たい。
彼の灰色の髪の、寝癖がついてピンと跳ねた毛束をそっと撫でた。
( あんたのことを思うだけで、 )
「胸がぎゅうって苦しくなるんだよ……――」
彼がもぞりと動いた。小さな声で低く唸っている。
「リーダー?」
起きたのかと思い、呼びかけてみたが返事はなかった。
そろそろ戻ろうと、ドアへ向かおうとした瞬間、ホランドの手が伸びてきた。
「へ?」
何も思う間もなく、気が付けば、ムーンドギーはホランドの腕の中にいた。
力強い腕に抱きしめられて、彼の匂いの中にいる。
( ……………。 )
( ……………………。 )
( ………………………………。 )
現実に思考が追いつかない。
ムーンドギーはただ目をパチパチと瞬きさせていた。
( ………………………えぇと、…………………… )
そしてようやく、
「!!??」
口を手で覆った。もう少し覆うのが遅かったら、きっと出る限りの大声で叫んでいたに違いない。
どうにかして抜け出なければと彼の腕を解こうとすると、ますます強く抱きしめられる。
誰かに助けを求めようか。
いやいや、この姿を誰かに見られたら大変なことになる……ような気がする。
( どうしよう……、あぁそうか、起こせばいいんだ。 )
そうは思ったが、自分を抱きしめて眠り続ける彼の眉間のシワに目がいく。
疲れているのだから、もう少し寝かせてやりたい。
結局、解放されるのを待つしかなかった。
誰かからこんなに強く抱きしめられたのは、小さい頃以来だった。
抱きしめられるとこんなにも温かくて気持ちが良いということを忘れていた。
彼の規則正しい鼓動が聞こえる。
ホランドの匂いに包み込まれる。
ムーンドギーは、慌てて目を閉じた。
( ちょっと待てよ、なんで、こんな……、これじゃあ、あの夢と同じだ。 )
胸のドキドキが止まらない。
顔に血が上っていく。
心臓が大きな音をたてて鳴り響く。
痛みが付け足された。刺されているような痛みが胸を刺す。
なんで。女の子じゃないのに。女の子みたいで、こんなのはおかしい。
おかしいよ。おかしいんだ。
( 止まれ、止まれ。ドキドキなんて、するな。 )
モゾモゾと何かを探るように動くホランドの手がムーンドギーの顔に伸び、両手でムーンドギーの頬を挟んだ。
彼の顔が、とても近くにある。
吐息さえも聞こえるほど、鼻先に感じられるほど、とても近くに、彼がいる。
心臓が早鐘で危険を知らせている。
一刻も早くここから出なければと頭のどこかが必死に訴えている。
喉がカラカラになっている。声が出ない。
頬に彼の手の温度を感じた。前に感じた時よりも、温かい。
涙が込み上げた。
「リーダー」
起きて、と続けようとした口が、塞がれた。
それは不思議な感触だった。
ガバっと勢い良く彼の腕を振り解いた。
勢いが良すぎてソファーから落ち、腰を床にぶつけたが、そんなのは気にならなかった。
ムーンドギーはドアに向かって全速力で、走った。
後ろを振り返らず、ただ床を見つめて、靴で床を蹴った。
みんなの元へ向かうと、晩ご飯が始まろうとしている時だった。
ヒルダとタルホが配膳をして、ギジェットとエウレカが食器を並べている。
入り口で立っていると、サラダを作っているタルホの横で鍋の中をかき混ぜていたヒルダと目があった。
「なに幽霊みたいに突っ立ってるのよ。どうだった?」
ムーンドギーの元へ手を拭きながらヒルダが駆け寄る。
「ホランドは何て言ってた?」
ヒルダの言葉にムーンドギーは、なんも、とだけ言った。
「なんもって、何を話したのよ」
「ごめん。晩ご飯、あとで食べてもいいかな」
ヒルダの返事を聞かずに、ムーンドギーはそう言って出ていった。
自分の部屋で、電気も点けずに膝を抱えている。
考えれば考えるほど、わけが分からなくなる。
気持ちを落ち着かせるためには、ひたすらボンヤリしているしかなかった。
空気に溶け込むように適当なことを考えてさえいれば、悩まなくて済む。
( 今日の晩ご飯は、ほんとにウィンナーたくさん入ってるのかな。 )
ヒルダはとても料理が上手だ。彼女の作る野菜スープは質素だけれどとても美味しい。
( デザートはあったのかな。プリンがいいな。プリンが食べたい。 )
食料庫に美味しい牛乳プリンがあるのを知っている。
2個だけしかなかったから、こっそり食べようと奥の方へ隠しておいたのだ。
プリンを頭に浮かべるだけで、牛乳プリンの香りと味が口の中に広がった。
( もうみんなとっくに食べ終わったんだろうな。もう、寝てるかな。 )
暗闇に慣れた目で置き時計を見た。数字は夜中を示していた。
( ボーっとしてると時間ってすぐに過ぎるんだ。 )
静かな部屋には空調の音だけが響いている。
心臓の位置に手を当てた。手の平の温度と服越しの胸の暖かさを感じる。
ゆっくりと呼吸をしているうちに、心臓の鼓動が手の平に伝わってきた。
トクン、トクン、と正常なリズムで脈打っている。
どうしてあんなに激しく脈打ったのだろうか。
いままでにあっただろうか。あんなにまで心臓が早撃ちになることが、あっただろうか。
自分は人見知りする方で、他人とうまく会話が出来ない人間だからちょっとしたことで緊張する。
そういう時、自分の心臓は確かにいつもよりも早く脈打ち、心臓のリズムにあわせるように冷や汗が背中を伝う。
しかし、あんなにも早いリズムは、一度もなかった。
もっとリズムが上がれば、心臓が壊れてしまうのではないかというくらいの鼓動。
思い出すだけで、顔に血が上った。
手の甲を頬に押し付ける。やはり頬は熱かった。
知らない人と話す時のドキドキとは、確実に、違う。
あの人の寝顔を思い出すだけで、胸が苦しくなる。
あの時感じた温もりと匂いが鮮やかに思い出された。
胸に当てた手の平に、また少し早くなった鼓動を感じる。
空いている左手で、自分の唇に触れた。
( あれは、事故だ。 )
きっとあの人が起きていたら、そうならなかった。
あの人が起きていたら、絶対に嫌な顔をする。
だから、事故だ。
人差し指の爪先で下唇をひっかいた。
さすがに空腹を感じた。
月光号の就寝時間はとうに過ぎている。
暗闇の中で立ち上がり、足下に気を付けながらドアへ向かう。
ドアに行き着くまでに雑誌を何冊か踏み、転びそうになった。
無事にドアまでたどり着き、シュンっという軽い音がした後、眩しい光りと共に廊下が現れた。
廊下には誰も居らず、誰の話し声も聞こえない。
真っ直ぐに食堂へと向かう。一人分の靴音が廊下全体に響いた。
いつも騒がしい船内がシンと静まり返っている。食堂にも、誰も居なかった。
キッチンに入ると目に付く所に書き置きがあった。
ヒルダの文字で『ウィンナーたっぷり入れといたからね』と書いてある。
鍋の蓋を持ち上げると、野菜スープの美味そうな匂いが広がった。
火にかけ、暖め直す。
豪華版の野菜スープを作ってくれたヒルダに、どう言えば良いのだろう。
結局何も言えませんでした、と伝えればいいのだろうか。
( だって……。 )
言い訳の言葉さえ頭に浮かばなかった。
鍋の中身が焦げないように時々かき混ぜながら、火の調節をする。
そろそろ良いだろうか。湯気もたち、とても良い匂いがキッチン全体に広がっている。
一度火を止めて、飲み物を取りに行った。
食料庫の棚に置いてある缶の中からお茶の缶を一つ取り、ついでに隠して置いたプリンに手を伸ばした。
缶とプリンを持ちキッチンへ戻ると、誰かが鍋の前に立っていた。
「え?」
こんな時間に誰が、と思った瞬間、その人物が誰なのかに気づいた。
この月光号に乗っていながら、トランクス一枚で堂々と歩く男。
ホランドが、鍋の中を覗き込んでいた。
つづく
※1 こったら 東北弁で『こんな(ところ)』 ホランドって眠り浅そうだから、側であれだけ喋ってたらすぐ起きそうだ。
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