リフの最中に彼はボードから地上へ、文字通り、落ちた。

その場に居た自分は、落ちていく彼をなんと美しいことだろうと思い、動けなかった。( なんて、イかれてる! )





その時から自分の中で、ホランドの中で、美しいものとなった彼は次に会った時 こちらを不愉快そうに睨みつけながら、あんた誰、と言い放った。

とりあえず、殴ってみた。(何故そこで自分が彼を殴ったのかは分からない。気が付いたら身体が動いていた。)

そういえば、彼は頭を強く打ったらしい。途端に殴ったことを後悔した。
彼がさらにアホになったら、多分それは間違いなく、自分のせいだろうから。

殴られた彼は顔を真っ赤にして、声を大きくして言った。

「なんだよ突然!こいつ誰だ!? なんでオレ殴られたんだ!?」

冗談を言っているようには見えなかったが、面白くなかったので、今度は平手でもう一発。
部屋にいい音が響いた。彼の頬に手形が赤く浮かび上がる。

「だ、だから!なんでさっきからオレは殴られてんの!!怪我人なのに!頭痛ェのに!」

涙をためて、言った。

「しかも、知らない人に!!」

さらにもう一発、と挙げかけていた腕を、その言葉が止めた。








                         * * *








「えぇとね、ホランド、今のドギーは、ムーンドギーだけどムーンドギーじゃないのよ」

「それだと、ムーンドギーじゃないけどムーンドギーだってことにもなるな」

「あー……まぁ、うん、そうね、そうだわ」

「ミーシャ、遠回しすぎる。率直に言え」

「全生活史健忘……つまり、記憶喪失になってる」

先程から表情を少しも変化させないホランドを見て、ミーシャは慌てるように付け足した。

「記憶は徐々に戻ってくるから。時間をかけて、なくした記憶を取り戻していくの」

書いたばかりのカルテを見下ろしながら、続けて言う。

「落ちたのが柔らかい草地の上で本当に良かった。 一通り検査をしたけど、脳にも頭蓋骨にも損傷は見つかっていない。脳震盪を起こしただけで済んだのね」

「自然に記憶が戻るのを待つのか」

「そうね。催眠療法もやってみる価値はあるけど」

「その記憶は、いつ戻る?」

「一日で戻る人も居れば、一週間かかる人も居る。一ヶ月かかる人も居れば、一年かかる人もいる」

「一生戻らない場合は」

「完全にないとは、言えない」

ホランドは自分の右手の爪を見つめた。切りそろえたばかりの爪先を親指の腹でなぞる。

「ショックなのは分かるわ」

返事はなかった。

「自分を責めているの?」

いや、別に。爪を見つめたまま、しごく当然のことのように言う。

「あなたのせいじゃない」

「それはおれに責任を感じて罪悪感に埋もれろっていうことか」

「違う、そんなつもりで言ったわけじゃない」

爪から目を離して、ミーシャの瞳を真っ直ぐに見つめた。自分の爪を見つめている時と、同じ目で。

「動揺してるのは、おれじゃない」

少しの沈黙の後、ミーシャが堪えきれなかったようなため息をついた。

「そうね。ダメね、私は」

「そんなことは、ないさ」

「出来ることは全部やるわ」

医務室を出て、一人きりの廊下でホランドは思いきり壁を蹴飛ばした。

頭の中に、あの時の、美しいと思った彼の姿が浮かんだ。








「あたしのこと、ほんっとーに分かんないの?」

「うん。知らない」

問いかけて、彼の返答に泣きそうになる。それを何度も繰り返している。

「ギジェット、いい加減にしろよ。ドギーが可哀相だろ」

「だって、だって嫌だよ!忘れてほしくないもん!」

「忘れてんのは今だけだろぉが。ずっと忘れたままってワケじゃない」

「でも、でもぉ」

ギジェットとマシューに囲まれている、いつもと違うムーンドギー。

「あの、そろそろいい? オレ、トイレ行きたいんだけど」

「お、おう、悪かったな、長く引き止めちまって」

「別に……」

彼が部屋を出ていってから、ギジェットは堪えきれず泣き出した。

「ドギーが別人になっちゃったぁ!」

マシューは黙って見ているだけだったホランドに目で助けを求めた。それに肩をすくめる仕草でこたえる。

訛りのない言葉が、いま目の前に居るのは自分達がよく知っている彼ではないのだといっている。

ギジェットの泣き声が部屋にびりびりと響く。






            つづく