「酷いことするのね」

叩かれた頬を冷やすために医務室へ行った。
女医はムーンドギーの頬を見て、うわ、とまるで自分が叩かれたかのような顔をした。

砕かれた氷の入った袋を頬に当てられた。熱を持った頬に冷たさが凍みる。

眉間にシワを寄せている。何だかムーンドギーが怒られているようで、居心地が悪い。

「別に、気にしてない」

「どうして。痛いでしょう?」

「そりゃ痛いけど」

「理由もなく叩くなんて」

「もう慣れたし」

「いつからなの」

「えーと、頭打った日から? あの日あの人と会ってすぐ叩かれた」

「サイッテーね」

「ね。」

女医は居ても立ってもいられないようで、部屋を行ったり来たりしている。

「あとで思いっきり叱っておくわ」

「いいよ」

そんなことしないでいいよという意味の、いいよ。
女医はまた眉を寄せて、どうして、と言った。

「殴りたくなる気持ちも、分かる、ような気がするし」

「それは、何故そう思うの」

「だってオレが悪いんだ」

「あなたは何もしていないじゃない」

「いいんだ、大丈夫」

2人並んで腰掛けているベッドのシーツをたぐり寄せる。

「心配してくれてどうもありがとう。 けどオレ、あんたのこと思い出せないし、まだ全然知らない人にしか思えない。 だから、優しくしないでいいよ。あんたが可哀相だから」

ムーンドギーの手の中で、真っ白いシーツがぐちゃぐちゃになっていく。

知らない人間。知らない場所。知らない自分。周囲を取り巻く知らないもの。
以前の自分を覚えてない。別人のようしか感じない。だけど、覚えていないいまの自分の昔も思い出せない。
自分は誰だ? どこから来た? どこで生まれた? 誰と、どう、今まで過ごした?

( わからない。 )

シーツが手から零れて床に落ちた。クリーム色のタイルをシワだらけの白が覆う。

「ムーンドギー」

自分の名前、を呼ばれる。自分のことだと分からなくて、反応が出来なくてもう一度、今度は怖々、呼ばれる。

「ねぇ、ドギー」

よばないでいいよ。それはオレじゃないから。

前の自分みたいに笑えるかな、と笑みを作ってみた。
それを見て、いまにも泣き出しそうな顔で女医が、それでもいいのよ、と言った。

あぁ、やっぱりダメだった。









                         * * *








正直、叩かれる方がいいと思っている。

受け入れようと必死になって、引きつった笑みで迎えられるより。
早く思い出さすようにと、昔の話を何度もされるより。

ずっといい。

いまの自分を受け入れられないと、はっきり態度に出してくれた方が、ずっとずっと。いい。


廊下を歩いていると、反対側から来る相手に気が付く。目は会わせない。しかし足は止めない。
すれ違いざま、ほんの一瞬、視線を交わす。立ち止まらず、言葉もなく、遠ざかる。それで、終わり。

なんて綺麗な拒絶の仕方だろう。

毎回不思議な気持ちになって、自分はいつも相手が完全に見えなくなってから、立ち止まる。


痛いのはごめんだ。けれど、叩かれることで、拒絶されることで、救われている自分が居る。

大丈夫。この人は、オレを見てる。昔のムーンドギーとしてではなく、オレをオレとして、見て、拒絶してる。


だけど、叩いた後のあの、肩をつかんで何も言わないまま目をじっと覗き込むあの人の真剣な目が――――



知りたくない。






            つづく