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いつだって、馨の驚いた顔が好きだった。驚いて、あわあわしながらツッコミをいれる馨は面白い。 だからわざと驚かせるようなことをしたりした。必死になってあわあわする馨の顔は、やっぱり面白かった。 必死になってこちらへ走ってくる時の顔もとても好きだ。 何を考えているんだろうな、と思いながら馨が走ってくるのを立ち止まって待つ。 呼吸を整えて話し出す時の顔はいつも、あの驚いた時の顔とよく似ていた。 だからその顔ももちろん好きで、おれは、いつも一緒に居てくれる馨がとても大好きだった。 (それはいまも何一つ変わらない。) いつだったか、馨が不思議な顔をして家の外のベンチに腰掛けていた。 それはとても不思議な顔で、笑っているようにも見えたし怒っているようにも見えた。 寂しそうでもあり、楽しそうでもあった。何かを我慢しているようでもあったし、どこかが痛い時の顔にも見えた。 しかけ絵のようだと思った。 そんなしかけ絵になってしまっている馨は、生温い風に吹かれながら両膝を抱えてじっと座っていた。 何も言わなかった。腕に抱いていた子猫がおれを見上げて、ニャア、と鳴いた。 返事の代わりに、すん、と鼻を鳴らして馨の近くに腰掛けた。遠くもなく近くもない距離。 何となくこの距離でないといけないような気がした。子猫はもう一度、ニャア、と鳴いた。馨はじっと動かなかった。 父の帰りを待っているのだろうかと思い、耳をすました。 父の車の音が聞こえたら、馨に聞こえていなかったらすぐに教えられるように、自分の心臓の音を聞くつもりで耳をすました。 父の車の音はまだ聞こえなかった。馨は動かなかった。 あの時のこと、覚えているかい。馨は少し黙ってから、ああ、と短く言った。 色んなことを考えていたら色んな気持ちが混ざり合ってしまって、自分ではどうすることも出来なくなってしまった。 だから外へ出たんだ。あの時、猫の声とお前の心臓の音がとてもよく聞こえたよ。 目が会う。馨の顔には何の表情もなかった。多分いま、おれも同じ顔をしている。 父さんの車の音は、あれからどれくらいして聞こえてきたのだっけな。 あれから、しばらくして、だよ。 そうか、と答えて馨は笑った。こんなに近くに居るのに何故だかとても、この唯一の肉親が遠くに感じられた。 あの時の子猫を抱きしめたい。 抱きしめて馨から近くも遠くもない場所に座って、父の車の音を探して、馨のことを、思って――。 ニャア、という懐かしい声を耳の奥で聞いた。そして懐かしい父の車の音が、そのすぐ後に聞こえた気がした。 馨はとてもすぐ近くに居た。手を伸ばせば腕に触れられることの出来る距離だった。 浮かんだ笑顔はいまはもうどこにもなかった。 パソコンのディスプレイに照らされた馨の顔はあの時の、しかけ絵のようだと思った顔と同じだった。 疲れただろう、寝るのならベッドへ行け。 ソファで寝ころんでいる身体の体勢を少し直して、首を横に振る。 「ここに居るよ、兄ちゃん」 キーボードをタイピングする音は雨の音とよく似ていた。 もう一度、手の届く距離だということを確認してから、目を閉じた。 瞼の裏で、小さい頃の馨が驚いて、あわあわしながらおれにツッコミをいれた。嗚呼、おれの大好きな馨の顔だ。 もう耳の奥であの時の子猫の声も懐かしい父の車の音も聞こえなかった。 馨の、キーボードを叩く音が雨の日の雫のようにパタパタと部屋に響いた。 『楽園の夢』 ハチクロの『カブたん』話。9巻未読の方にはきっと何が何だか分からない。羽海野先生は天才です。 |