あぁ、今のこの気持ち。これは何と云うのだろう。何という名前だったかしら。
私にはそれが、どんなに考えてもどれだけ考えても分からなくて、あぁ、 ほらまた、気が付けばもう別のことで頭が満たされてしまっている。
 私は、ものを考えることに向いていないことは分かっています。 分かっているのに、また考えてしまう。息をするのと同じに。何度も何度も。 そうして繰り返し考えるのです。分からなくなって、疲れて、もう嫌だと思い、頭が痛くなるまで。なっても。 私は、繰り返すのです。

 ある日。相変わらず毎日様々のことがまるで水のように流れていく頭のまま庭に蛸壷を増やしていた時。 (これは私なりの消化と、八つ当たりでした。)廊下を歩く中在家長次先輩の姿を見つけました。 中在家先輩は手には本を持ち、音もなく図書室へ消えていきました。
 本にはたくさんのことが書かれています。 本には様々な世界があり、私には理解出来ないたくさんのことも山ほどあります。 だからでしょうか。私は突然、先輩に読んで貰おう、と思いました。 そして問うてみようと思ったのです。答えてくれるかは分かりませんでしたが。

「ない交ぜ、という言葉の何と便利なことか」

 だってそう言いさえすれば、他のもっと適切な言葉を探さずに済むから。

「色んな気持ちがない交ぜ、という風な表現があって、それで私は思ったのです。 こうして言葉はどんどん消えていくのだと。昨日あった言葉が、今日には使われなくなって消えていくのです。 けれど私は思うだけです。他にもっと適切な言葉があったとしても、 そのために頭を悩ませることはしないし、したくない。私は言葉の消滅を見ているだけです」

 消えていく言葉を、ただ見ているだけです。

「それから、思うのです。ない交ぜ、という言葉があれば深く考えなくて良い、と。 だって、知りたくない気持ちや気が付きたくない感情だってあるはずなのです。 私はそうです。だから私は言葉を消えていくなと思いながら、言葉を消してしまいながら、 それ以上考えることをしないで、ない交ぜという言葉を使うのです」

 知りたくなどないのです。気が付きたくなどないのです。

「私は考えます。考えて、考えて、分からなくなって、また考えて、忘れてしまう」

 考えることに向いていないのです。

「それでも私は考えます」

 息を吸うように。息を吐くように。

「考えるのです」

 だから疲れてしまうんです。

「蛸壷の中は、シンプルだから良いのです。だから私は好きで、たくさん掘って、増やすのです。 あれは私を悩ませないから。あれの中は何もないから。私は考えたくないんです。 考えることなんて本当はしたくないんです。だっていくら考えても分からないから。 答えが出ても……答えって何だろう。正体?名前?体?あぁ、ごめんなさい。私は、また分からなくなってしまいました」

 図書室は喋ってはいけない場所です。私は怒られるのが嫌いです。 それに本も特に好きではなかったので、普段は立ち入らない場所なのです。
 中在家先輩は私にも分かるくらいに迷惑そうな顔をしながらも、怒らないで聞いていてくれました。 先輩が読みかけていた本は、一応覗き込んでみたけれど全くどんな本なのか私には理解が出来ませんでした。
 口をへの字に歪めて、眉間にシワを寄せている中在家先輩。瞳の色は濃い茶色でした。 私はその色が好きでした。蛸壷を掘っていると、ちょうど、腕が痛くなってくる頃に出てくる土の色だからです。 その色が現れて、やっと立派な蛸壷になるのです。

「茶色と黒色なら、私は茶色の方が好きです。でも滝夜叉丸の瞳の色は好きです。 黒いけれど、もっと黒いから。あぁでも三木ヱ門の瞳の明るい色も、 タカ丸さんのもっと明るい色も好きです。先輩の色は深い蛸壷の色です」

 私の蛸壷。今日はここに来る前に10箇所に作りました。あとでまた作ります。

「先輩の瞳に入りたい。でも先輩の瞳は蛸壷と同じ色なのに、入れません」

 どうしたらいいですか? そう問うと、先輩はゆっくり瞬きをしました。
 そこで思い出しました。また、流れてしまった。またこの気持ちになってしまった。

「……どうしましょう」

 何の話をしていたんだろう。問いたかったことは何だったろう。どうして中在家先輩に話そうと思ったんだっけ。
 どうしましょう。私は本当に考えることに向いていない。

「お前は、どうしたい?」

 何を、どう、考えたい。
 ぽつりぽつりと雨が降りました。

「考えて、俺の瞳に入って、どう、したいんだ」

 雨だと思ったものは中在家先輩の言葉でした。

「私は」

「お前は」

「分かりたい。考えたい。ちゃんと、流れないで、覚えていたい。ない交ぜ、の中身を知りたい。 名前を付けたい。だから、中在家先輩になりたい。中在家先輩の瞳に入りたい。そうして考えるんです。 私には出来ないから」

 中在家先輩は懐から紙の束に紐を通したものを取り出しました。 表紙の下の一枚目と二枚目をびりりと破ると、残りの全てを私に差し出して言いました。

「これに、書くといい。書いておけば、忘れてしまっても、ここに残る。 書いて、忘れた頃に読んで、思い出して、また考えればいい」

「……でも時には、分かりたくない、気が付きたくない、そっとしておきたい、そんなものもあるのです。 それも、書くのですか」

「きっと後で、理解したくなる」

「……そんな日は、来ない……かもしれない」

「それならそれでいいんだ」

「私には分かりません」

「そうか」

「分かりません」

「そうだろうか」

「もう、何も、分かりません」

「そんなことはない」

「私はただ、一緒に考えてくれる人が欲しいだけなんです」

 私は私の思うこと考えることを、私の代わりに思い考えてくれる誰かが、欲しい。

「後にそれを読むお前自身が、居る。それを読むお前が、今のお前と一緒に考えるよ」

 自分がいま何を考えているか何に悩んでいるか何を思っているかどうしたいか、分からなくなりました。 分からないということは何時だってどこか気持ちが悪いものです。 問題集の答えが分からない時などは何も思わないというのに。むしろ分からないままにしておきたいと思うのに。

「俺にも、そういう時があった」

 また雨が降りました。

 あぁ、この気持ち。この気持ちの名前は何というのだったか。これもまた、ない交ぜになってしまっているのだろうか。

「私、先輩に本を読んで貰いたいです。難しい本でも、いいです。私はきっと理解できないけど、それでもいい。 先輩に本を読んで聞かせてほしい。これ、何という気持ちでしょうね」

 流れて消えてしまう前に言いたくて、早口になってしまった私の言葉を、先輩は黙って聞いて、少し目を細めました。

「いまは分からないまま、とっておくのも、いいことだ」

 それから私の日課に、蛸壷を掘ることの他に、書くことと本を読み聞かせてもらうことが増えました。 時々、私が書き留めたたくさんのことを中在家先輩に読んで貰うこともあります。 中在家先輩は読むたびに、一つ頷きます。
 私は少しずつ分かってきました。私は考えることに向いていないけれど、考えることが好きなのだとか。 ふとした時の気持ちの名前とか。あの日のあの時の少し寂しい気持ちの正体とか。 あの日、中在家先輩へ思った気持ちとか。(あれは尊敬と友愛だ。)

 私は少しずつ分かってきて、私の世界もそれと同じく少しずつ広がっていきました。 それまでの私の世界はまるで私の掘る蛸壷のようなものだったのだと、今になっては思います。
 蛸壷から顔を出して見回した世界は相変わらず私を悩ませ、考えさせます。 (空は何故青いのか。曇りの日の雲はどこからくるのか。鶏と卵はどちらが先か。 血もトマトも赤いのにどうして味は同じじゃないのか。)
 けれどもう私は大丈夫です。
 大丈夫。
 私は、『考える』ことが好きなのです。



『ない交ぜの世界、僕の世界』
綾部と中在家、という組み合わせが唐突に書きたくなった。