におい、がした。

風が運んだものなのか、誘われるままに辿っていくと片付け途中だった行李の隅に、 窮屈そうに挟まれた小さな匂い袋を見つけた。
ひとつ、ふたつ。みっつ数え終える前に思い出した。
嗚呼。嗚呼。そうかぁ、と声に出して呟いた。ここにあったのか。
これは貰ったのだ。もう懐かしいあの人から、貰ったのだ。
すっかり色褪せた布地に鼻をつけ、すんと嗅ぐ。そうして次は目を閉じて、深く息を吸い込んだ。



初めて出会った日から何度目かの来訪。
桜を散らした嵐と入れ違うように錫高野与四郎は忍術学園へやって来た。
いつものように斉藤タカ丸の自室で近状を報告し合い、世間話をしていた時。
与四郎が切り出した。俺の家、見に来るかい。

「お前さん、覚えてっかい。俺ンとこの村ぁ来てみてぇっつってたの」
「うん。覚えているよ。連れて行ってくれるの」
「おうとも。相模国中、案内してやらーな」
「それはとても嬉しいけど、与四郎くん忙しいのに悪いよ」
「いいさ。いいんだ。俺が、あんたに見せたいんだ」

そう言って与四郎はいつものように目を細め、白い歯を見せて笑った。

その次の長期休みに、タカ丸は与四郎に連れられて相模国へ向かった。
何日も何日も歩き続ける長旅の末やっと辿り着いた相模国で、与四郎は本当に様々な場所へタカ丸を連れて行った。 (おかげで、初めは神奈川弁に戸惑い与四郎抜きでは覚束無かった会話も徐々に一人で買い物が出来る程になった。)
飽きる暇などなかった。自分の故郷が寂しいと思う暇なんて与四郎は与えなかったし、タカ丸も微塵も感じなかった。
相模国には、タカ丸が今まで見たことのない花が至る所で咲いていた。
その花の木の下で、初めてタカ丸は与四郎に抱かれた。 月の明りの中で、自分たちをからかうように降る花びらを視界に入れながら、熱る身体をどうにかしてほしくて、 ただただ自分を抱く身体にしがみ付くことしか出来ず、花の香りと与四郎に溺れる。そんな日が何日も何日も続いた。

「本当は帰さない筈だったんだ」

約束の日がきて、行きと同じに何日も何日も歩き続ける帰り道。
後ろ髪ひかれるように何度も振り返るタカ丸に、与四郎は笑いながら言った。
帰さない筈だった、そのままあんたを浚ってしまおうと思っていたんだよ、でも止めた。

「こんな辺鄙なところじゃ髪結いさんには辛かろう」
「――でもおれ、髪結いのできる忍者だよ」

タカ丸の言葉に、いつものように目を細め、白い歯を見せて笑った。

「帰さない筈だったけど、帰せなくなるから、その前に……」

帰りな。その言葉とともに背中をとんと一つ押された。 そのまま後ろを振り返らないようにして、それでも耳は後ろを歩く与四郎の足音を必死に捕らえながら、 ただ足を動かして帰り道を歩いた。

久しぶりの忍術学園の門を潜ってすぐ潮江文次郎の姿を見つけた。休みのおかげか目の下の隈が薄くなっている。 挨拶をして通り過ぎようとした時、落し物だぞと引きとめられた。渡されたそれは見慣れぬ小さな袋だった。
タカ丸の物ではないがとても嗅ぎ慣れた花の匂いがする。

「忍者にさ、匂い袋って変だよね」

忍者は匂いさせてたらいけないのに。手のひら程の小袋を握り、込み上げて来る何かを押し留める。
忍者から匂い袋なんて、忍者に匂い袋なんて。変だよねぇ、おれ忍者なのにさぁ。

文次郎は何も言わずに一つ頷いて、それから、いい香りだなと言った。

「お前に似合ういい香りだ」

タカ丸の喉がぐうと鳴った。それは押し留めていたものが溢れた音だった。
袋に鼻をつけて息を吸い込むと、もう酷く懐かしいとすら思う恋しい香りがした。



それから忍術学園に与四郎が尋ねてくることは一度もなかった。 様々な噂を毎日のように耳にした。 真否の程は分からないがその中には、与四郎が帰さないつもりだったけど止めた理由と思わしきものもあった。 しかしタカ丸は、与四郎が言わなかったことはそのまま知らないでいい事なのだろうと、詳しく聞こうとはしなかった。

あれから二年。
今になってやっとあの時の『帰せなくなるから』の意味が分かった。
同時に、『帰りな』と言った与四郎の気持ちも。

「懐かしいなぁ」

布の色は褪せて香りももうぼんやりとしている。
鼻をつけてすんと嗅いでも、記憶の中のあの香りは蘇ってこない。 あの花の名前は何だっただろう。確か彼から、初めての晩に教わった筈なんだけど。
彼は、与四郎は今どうしているのだろうか。 どこか遠くの地であの頃と同じように、目を細め白い歯を見せて笑っているだろうか。そうだといい。そうであればいい。

掃除の際に開け放していた障子から一際強い風が、花びらとともに入ってきた。

「あぁっ、掃き掃除が終わったばっかりなのに」

畳に舞い散った桜の花びらに慌てて小袋を行李の中へ戻し、再び箒を手にとる。
使い慣れた自分の部屋。
その部屋を明日出て行く。
あの人が帰りなと言った世界から。彼がタカ丸を置いて行った世界へ。

タカ丸は明日、花の香りの似合う髪結いと一緒に、忍術学園を卒業する。



『春の嵐』
絵茶の時のリクエストのよしタカ。一応『胸騒ぎの予感(よし→タカ←文)』の続編に位置するお話です。
作中の花は本当は○○○だったんですが、調べてみたら室町時代にはまだ日本にない花だったので名前は伏せます笑
結局タカ丸は与四郎とも文次郎ともくっつかなかったけどこれが私のハッピーエンドです。
おすださんに捧げます。