あ。

突然の声に振り返り、目と目が合った瞬間、その人はふっと消えた。
瞬きを一つ。二つ。

先輩、善法寺先輩、大丈夫ですか。

消えた先、地面にぽっかり空いた穴の中から苦々しく笑う声が聞こえる。

手ぇ、必要ですかね。
いいや、大丈夫だ。ありがとう。……いや、すまない、やっぱり手を貸しておくれ。

縁側から地面に降り立ち、先輩が消えた穴を覗き込んだ。

何してるんです。
紙が汚れてしまうといけないから。
その代わり自分が土まみれになっていますが。
ああ、うん、それはいいんだ。なぁ……これを受け取ってくれないか、このままでは起き上がることもできなくて。
いいですよ、さあ紙をこちらへ。あなたはこちらの手を掴んで。
私はいいよ、お前まで汚れてしまうよ。
紙を先に受け取りますから、ほら、あなたも早く。
……ありがとう、助かるよ。

ぐぃと一気に引き上げる。
白く綺麗な落とし紙の束と、髪や制服が土で汚れた先輩が釣れた。

全く、情けないところを見せてしまったね。
怪我はありませんか。
大丈夫、受け身は得意なんだ。
だからといって、自分よりも落とし紙をというのはどうかと思いますがね。
だって、落とし紙が汚れたらみんなが困るけれど、私なら汚れても風呂に入ればいいだけだから。

真面目な顔をしてそんなことを言うので思わず言葉につまる。
すると先輩が笑いながら、お前は優しいね、と言った。

……優しい? 俺が?
そうだよ。

はて、誰のことを言っているのか。首を傾げて考える。
そういえば穴の中でこちらを何と呼べばいいか、一瞬迷っていたようだった。 つまり先輩は分かっていないのだ。いま、自分の目の前にいる者の名前が。そして思い違いをしているのだ。

俺、鉢屋です。雷蔵ではなく、鉢屋ですよ。
そうだね、お前は鉢屋だね。
……どうして分かったんですか?
ううん、何故だろう。鉢屋は鉢屋だからかな、なんて。ああいけない、もう行かないと。助けてくれてありがとう、それじゃあ。

遠ざかる土まみれの後ろ姿を振り向かせたくて、思わず声をかける。

最初の、あって何だったんですか。

離れたところで不思議そうに目を瞬かせ、それから。

あ、鉢屋だって思って。だからその『あ』。

そう言って、手を振りながら曲がり角に消えていった。



 * * * 



雷蔵、もう寝たかい。暗闇の中で、天井を見つめたまま話しかける。
すぐに、起きているよ、と返事があった。

「俺はお前が大事だ。だから、お前の姿になりたいんだ」

「うん?」

「雷蔵へ思う気持ちと、似ている気持ちを見つけた。でも、姿を借りたいとは思わない」

雷蔵が、こちらへ首を動かした気配がした。黙ってこちらを見ている。

「何故だろう。何が違うんだろう」

「……もう寝な。朝起きて、それでも知りたかったら、また考えるといい」

布団を被り直す気配のあとに、一度深く息を吸う音が部屋に響いた。

「私は君が、そういう気持ちを見つけたことが、とても嬉しいと思うよ。さぁ、もうお休み三郎」

「……お休み、雷蔵」

しばらくして雷蔵が、少し寂しくもある、と息で呟いた。それに返事が出来ず、ただ朝になるのを待った。

朝になったら考えるよりも何よりも先に、一番にあの人の顔が見たい。



『あから始まる』
鉢屋と伊作という今まで考えたこともなかった組み合わせ。難産だったけど、新鮮で楽しかったです。
不破と鉢屋はまるで双子のような関係で、お互いが特別だけどでも恋愛感情にはならない。
こっそりnezumiさんに捧げます。もちろん返品or廃棄可です!(小説のタイトルは是非お好きに換えてください。)