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寒い夜だった。吐く息は黒い空に白く広がり、消えていく。寒い夜だった。 元旦の挨拶も早々にすませて、雑煮を味わう暇もなく、学園から遠い地にある実家を出た。 八日にはもう新学期が始まってしまう。 早足で町を抜け、山を越え、すぐに夜になった。家を出てから三度目の夜が来た。 肩を竦めて手をさすりながら一歩一歩確実に前へ進む。雪がちらりちらりと降り出した。 笠の位置を直し、足を速める。寒い夜だった。 身体の揺れにあわせて懐の小刀がとんとんと胸を押す。服の上から押さえた手が悴んで震えた。 使え、と投げて寄越した。古い懐剣だった。少しばかり抜くと、手入れされた美しい刃が輝いた。 使え。短くそれだけ言って、背中を向けられた。 鞘に何かを彫ってあるようだが、磨り減っていて目では何が描かれているのか分からなかった。 それを指でなぞりながら背中に言う。お前、俺を誰だと思っているんだ。 用具委員長だろう。……馬鹿め、俺は武器には困っていない。そうじゃない。 そうじゃないと背中は言った。なら何だ、何の真似だ。背中が、もぞりと動いた。深く息を吸ったらしい。 いらないなら返せばいい、だが学園に戻るまでは持っていろ、それまでは持っていろ、 学園に戻ったら返しに来てもいいし面倒だったら捨ててもいい、 お前の好きにしろ、それまでは……我慢して持って、連れて行け。 馬鹿め。がばりと背中が、文次郎がこちらへ身体を向けた。馬鹿め。 もう一度言ってやると、文次郎は口を鯉のように開け閉めして、それから、うめくような声で言った。 分かっている。その言葉に、その声に、その顔に、堪えきれず笑った。文次郎の顔が赤く染まっていく。 馬鹿め、俺はお前に守られるような柔な男ではないぞ。分かっている。 俺の実家へついて行きたいのならば、素直にそう言えばいい。分かって……あ? ちっ、違う、違うぞっ俺はだな!と手を振る馬鹿は放って、小刀を懐へ収めた。 お前の家は確か海の近くだったな。……おう。ならば駄目だな、潮風で錆びてしまう。なんだ?。 お前にも何か渡してやろうと思ったんだ。ひゅ、と小さく息を吸い込む音が聞こえた。 相変わらずの間抜け面にまた笑う。文次郎の腕をとって、袖をめくる。焼けた太い腕の中程を掴む。 だからせめて俺の体温を持って行け。もう文次郎の顔は見なかった。 掴んだ自分の手と逞しい腕を見つめながら、ただ黙って、部屋の灯りが尽きるまでそうしていた。 笠に雪が積もる音に紛れて、狼の遠吠えが聞こえる。 足をとめて、懐剣を取りだした。刀は抜かずにそのまま鞘に鼻を押しつける。嗅ぎ慣れた潮の香りがした気がした。 また胸元に収めて、腰に括り付けてある鉄双節棍へ手を伸ばして足を速めた。 もし狼が襲ってきて、撃退したら、その血の臭いに隠れて消えてしまう。だから使わない。 鉄双節棍に指を絡めた。 鼻まで凍りそうな冷たい空気を胸の奥深くまで吸い込む。 あいつが今寒い思いをしていたら、もしそうだとしたら、俺の体温を分けてやりたい。 なんて、そんなことを思う俺はあいつに負けぬ馬鹿だ。 潮の匂いをたどるように、足を動かした。 学園にあいつよりも先に着いたら、遅いぞと笑ってやろう。 それから、お前よりも役にたったと言って返そう。 ( 素直に言えるかどうかは分からないが一応、感謝の言葉も用意しておこう。 ) その時どんな間抜け面をするのか、今から楽しみだ。 『春の温い雨のような雪の音』 2010年 元旦 なんでもない日・ヤマネより愛と感謝をめいっぱい込めて。 お正月お持ち帰りフリー作品。文留を愛する皆様に捧げます。 お持ち帰りの報告は任意ですが、一言頂ければとても嬉しいです。 |